孤高の芸境  よろこびの山城少掾 S.35.10.8(毎日) 山口廣一

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 豊竹山城少掾、まことに孤独の人である。近親と呼ばるべきほどの人はひとりもない。
 老夫人のうのさんは終戦直後になくなった。七人もあった子供たちも末娘の雄子ちゃんを最後にひとり残らずこの世を去った。現在、山城の朝夕を見まもるのは女中の横山さんと門人の豊竹十九大夫ぐらいのものだろう。一昨年、文楽座を引退して以来、京の東山に移り住んで、来る日も去る日も孤独のわびしさにたえかねているこの老芸術家に“文化功労者内定”の報は、せめてものささやかななぐさめになろう。

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 山城の数ある傑作のうち、筆者は特に「伊賀越道中双六」の八ッ目「岡崎」をとりあげたい。雪の夜の岡崎の宿、かそけきともしびのもとに展開する政右衛門とその病妻お谷との悲劇を、かくも哀傷切々たる叙情で表現し得た太夫は古今を通じて、現在の山城をおいて他にあるまい。
 一例を引こう。その「岡崎」でお谷の登場するくだり“そとは音せで降る雪に、無惨や肌も郡山の国に残りし女房の…”の一句における音(オン)づかいと足ドリで、たましいの底まで冷えこごえるような雪の夜の静寂を感じさせる。ついで政右衛門がお谷をいたわって帰らせるくだり“杖を力に立ちかねる、とやせんかたえに脱ぎ捨てしコモに積りし雪のまま着せて….”におけるお谷の悲しみと絶望の迫力にいたっては。それはまさに山城第一の絶品だった。
 右にあげたほんの一例でも知れるとおり、山城の芸風は、義太夫の詞章の文学的な解釈の深さと、その音楽的な表現の的確さにおいて、古今の太夫の企及し得なかった清新を示した。さらに加えて、登場人物の心理的な掘り下げ、情景描写の色感、曲節の文法的な処理の正しさまで、すべて山城の正統派的な芸術意欲のあらわれだった。凡百の太夫なら、おのれの美声にたよって軽く歌い流してしまうことだろう。山城はそれの出来ない太夫である。どこまでも論理的な計算と、それを導入する豊かな創意によって、おのれの語るべき作品をギリギリの極限にまで押し進めて、その最後の芸術的頂点を追求しようとする。そこに前人未踏の“山城の風(ふう)”が誕生した。山城少掾、孤高の芸境である。
 太夫の類別からすると、山城は三段目語りというよりも四段目語りだろう。時代物語りというよりも、むしろ世話物語りだろう。だが、そのいずれにおいても山城ほどの天分と知性と努力とを兼ねそなえた名人は得がたい。幕末の五代目春大夫明治期の摂津大掾、三代目大隅大夫らについで、昭和期の豊竹山城少掾もまたわが国の音楽史における一人の革命児である。今日の文化功労者の栄誉また当然というべきであろう。

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 山城は当年八十一才になった。あの円満な風貌は若き日とさして変わりないが、さすがに足の運びがたどたどしくなった。生来の酒豪ながら今日では一盞(さん)の晩酌に孤独の余生をまぎらせている。
 住まいは京都東山清井町、ささやかな庭に打水して秋草の青さに見入っている。朝の高台寺の鐘と夕の知恩院の鐘とが静かに端居する山城の肩のあたりに清風の余韻を流して過ぎる。
 八十路を越えた老芸術家の孤独は絶え入るばかりのわびしさだが今日の吉報は、この寡黙の山城にも、そのよろこびの口もとを、しばし明るくほころばせたことであろう。(山口記者)