風格の「沼津」 二月の新歌舞伎座 S.36.2.16(毎日) 劇評 山口廣一

 

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 勘弥の弁天小僧が極楽寺の大屋根で立ち腹を切ると、その大屋根がガンドウ返しで奥へたおされて、下から山門のセリが上がって来る。山門の上には猿之助(二代目)の日本駄右衛門が大百日に金銀のドテラ姿でひかえている。大太鼓入りのセリの合方が素朴な花やかさをひびかせ、サクラの釣り枝が舞台一ぱいに明るい春色をちりばめている。いかにも原始的な舞台転換だが、この舞台転換の瞬間の興奮は歌舞伎のすぐれた美のリズムである。歌舞伎は古い美意識のようでいて、実はこうした個性的な生命力の充実を感じとらせるところ、むしろそれは新鮮な美しさでないか。今月の新歌舞伎座では昼夜を通じて、この山門のセリ上がる瞬間のわずか数十秒間の興奮が、なににもまして快感だった。
 その勘弥の弁天小僧も、前場の「浜松屋」のユスリより、この大屋根の立ちまわりのほうが、はるかにいい。決まった形のかどかどに、かっての十五世羽左衛門を思わせるポーズのとり方がほほえましかった。猿之助の日本駄右衛門はさすがにあの目とあのツラだましいとが利いている。それは近ごろの若い俳優に求め得ない歌舞伎の古怪な美の感覚である。なお「浜松屋」での仁左衛門の南郷力丸は二枚目めいた軟派の力丸ではあるが、これもすっきりとした嫌味のない演技に点を入れておく。

 寿海と猿之助との顔合わせに「沼津」が選ばれているが、その寿海の重兵衛も猿之助の平作もともに正攻法的な演出である。先代鴈治郎や先々代仁左衛門によって代表される上方系の演出でのこの場は悲劇のなかのおかしみを強調する。したがって当然立役であるべき重兵衛が和事めいた色気のおかしみで演出される。こんどの「沼津」はそうした上方系の演出とは全くニュアンスの違ったどちらかといえば義太夫の原拠に近いやり方でゆく。その是非はしばらくおくとして、筆者が正に正攻法的な演出といったのは、かかる意味あいからなのである。
 寿海の重兵衛はそれだけに沈潜したさびしい重兵衛ではあるが、千本松原での平作への情合いが渋い淡彩画のような詩情でしっとりとした味だ。欲をいえば平作内の場での”人間万事芭蕉葉の”から”降らねばよいが”あたりのセリフにもう少し悲痛な感情のにじみを聞きたかった。猿之助の平作はここ数年来でのこの人の傑作といえる。もちろんこれも淡々たる平作なのだが、むだな思い入れが少なくて、それでいて演技の急所だけはしっかりおさえていた。いずれにしてもこの老大家ふたりの協力になる「沼津」は少なくともその風格の大きさにおいて、当代での「沼津」であることに間違いはない。
 その他今月の役々では、久々に帰阪した鶴之助の進境を特筆しておかねばならない。わけて「長脇差試合」での浅太郎はその腰のすわった明快な演技に、年来の努力と天分とを示しえていた。 (山口記者)