文五郎という名人 昭和二十一年文楽座公演  毎日新聞 山口廣一

 

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 私は文五郎の人間が好きです。もちろん芸も好きですが、その「芸」をつくりあげている、その芸のもう一つ奥にある「人間」がさらに、より好きなのです。
 文五郎が、二代目吉田玉助の弟子として、はじめて文楽座へ入座したのは明治十七年だったといいます。時に文五郎、十六才でした。
 その頃の文楽座はまだ松島の花園橋にありました。そして文五郎の生家は天満の与力町でした。だから、十六才の少年文五郎は、毎日毎晩、天満の与力町から松島まで通わねばならない。もちろん、そのころのことですから、市電もバスもありません。然も、その頃の文楽座は朝の五時から「三番叟」の幕が開くので、是非とも、それまでに出勤していなければなりません。それで、天満の与力町の家を出るのが、毎晩、夜中の午前三時ごろだったそうです。

 まだ真ッ暗らな夜道を、河内木綿の筒袖に、手に小田原提灯をぶらさげた文五郎が、与力町から堂島川へ出て、さびしい蔵屋敷の前を川沿いに松島まで、てくてく歩いて行く姿を想像してみて下さい。時には雨の夜もあったに違いありません。これが毎夜のことですから大変です。小田原提灯をぶらさげた手から、ヒビや霜やけで血が吹き出ています。その痛みをじっと喰いしばって歩きました。と、そのころを追憶しながら、文五郎はそう話した。

 文楽座へ通うことだけで、すでにこれほどの苦しみです。然もその上、小屋へ着くと、師匠や兄弟子たちの下着を、千代崎橋の下に持って行って、それを洗わねばなりません。手先がちぎれるほど冷たい川水に、文五郎は泣いた。
 今日の名人吉田文五郎は、十六才の少年時代から、こんな苦しい修業で叩き上げて来た人なのです。私はその苦しい修業を、なによりも尊いものだと思います。

 今日の歪められた自由主義、行き過ぎた享楽主義からすれば如何にも馬鹿げたことに見えるかもしれません。それは私たちが“苦しみ”がもっているある種の美しさ、尊さを忘れてしまったからなのでしょう。
 明けて八十五才の長寿を祝う文五郎、一見したところ、平凡な好々爺に過ぎないようですが、文五郎こそ、自分の人生を、自分の“苦しみ”で磨きあげて来た「人間」としての立派さをもっている人です。
           
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 文五郎は芸人です。芸人だからといって差しさわりがあるかも知れませんが、恐らく文五郎は、若いころからいろんな女性とたくさんの関係を経験しているでしょう。それで、私は或るときぶしつけに「あなたが一番好きだった女の方は?…」とたずねてみたのです。すると、
 「それは北海道札幌で働いていた芸者で、栄龍といいました。えらいわたいに情を尽くしてくれた女で、しんそこわたいに惚れてました。わたいも、またこの女に死ぬほど惚れてました」
 と、いとも平気な顔で答えたのです。それこそ、表情ひとつ変えずに、まるで小学校の生徒が先生に答えるかのような調子で自然に朗々と打明けました。
 このとき以来、私はいよいよ文五郎に魅かれていったのです。この答えは、実に淡々たる人間ムキ出しの面白さだからです。
 それほど惚れ合っていた女とどうして夫婦にならなかったのか、別れてしまったのか、そんなことを聞き返すことはない。
 「女も、しんそこわたいに惚れてました。わたいもまたこの女に死ぬほど惚れてました。」—どこか天国へでもいった無邪気さです。近頃の恋愛小説などより遥かに、男と女の情愛の不思議さを語っていて、私は何故か胸を打たれる思いがしました。文五郎の高弟「紋十郎」が「師匠の奥さん想いを知らんもんはおまへん」というほど、文五郎は女房大切の人であることも云っておかねばならない。

 今日、文五郎は芸術院会員です。だが、実はそんな形式的な肩書きなどは、どうでもいいのです。それよりも苦難が鍛えあげた人間の立派さ、枯れ切った人間の面白さにおいて、私は、だれよりも文五郎を愛し。文五郎を尊敬しています。(山口廣一)