綱大夫の「沼津」 七月の文楽座 S.31.7 毎日新聞 山口廣一

 

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 新作「ハムレット」が終ってつぎの「壺坂」がはじまると、舞台も客席も急に生気を吹き返した感じだった。作品としての「壺坂」は必ずしも調子の高いものではないが、それでも床に松大夫と清六、人形に文五郎や栄三がならぶと、さすがに急ごしらえの新作などとは違って、長い年月をかけたたみ込んだ芸の格調が光って来るからだ。いいかえれば、文楽のもつ本質的なものに安心して溶け込んでいられるからである。文楽の新作にはなお多くの課題が横たわっていることを、これでまた改めて知らされる思いがした。

 その「壺坂」では、まず清六のイキの変化に富んだ三味線を聞くべく、松大夫も沢市の言葉に工夫があり、人形では亀松の沢市がやや動きすぎるほかは、文五郎のお里も老巧のツヤを示した。

 昼夜通じては、綱太夫弥七の「沼津」が第一の優秀作である。大体において山城ゆずりの原作尊重で行くところに、綱太夫の主張があり、それが当て込みのない抒情表現の手堅さに通じた。例えばお米のサワリにおけるほのかな哀愁、段切れ近くでの重兵衛と平作とのしっとりとした情合いずれもこの人の内面的な凝集力である。人形ではこれも先代ゆずりの栄三の重兵衛が柔軟性のあるいい味を出していた。「朝顔」の「宿屋」は伊達大夫以下の掛合いで、いささか雑然としているが、静大夫の徳右衛門、新進の織の大夫岩代を採っておく。松大夫と津大夫の「鎌倉三代記」では後半の津大夫が時おり無理な声の出るのを別にすると“刺されし時のそのうれしさ”などの大きさが以前よりは充実して来た。人形では玉助の高綱が荒らモノつかいの骨法をよく伝えている。

 さて、新作の「ハムレット」だが、こんども松之輔の作曲である。全体に時代物めかせた節調のうちに、行進曲をあしらったり、民謡風の唱歌を添えたり、三味線胡弓として使ってみたり、いろんな新しい努力を見せているのだが、綱大夫の語るハムレットとガートルードとのくだりが盛り上がらず、結局は筋書きを追うのみの空虚さに終わったのは是非もない。

 もう一つの新作「四谷怪談」も同じく松之輔の作曲だが、伊達大夫の“髪すき”が聞けるほかは、これも残念ながら企画ほどの面白さでなかった。(山口廣一)