玉葉、羽左衛門、喜多村 「里見弴の素顔」(かまくら春秋)サントリー美術館 山口久吉

 

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 終戦間もなくのころ先生(里見弴)と京都へゆき、三条大橋東のしもたや風の宿に泊まった。夜十一時近くになって一人の女性が現れた。一見して祇園芸者と知れたが、背のスラリとした美人で京風というよりは東京、それも柳橋か葭町の感じだった。すぐ酒になった。
 先生とこの女性は戦争をはさんで随分ご無沙汰だったらしく、話は次から次へと途切れがない。私はやがて自分の部屋に引き下がったが、翌朝、宿の朝風呂を済ませたころ先生が起きてこられて、食事のとき、
「あいつは玉葉といって、古い馴染みなんだ。朝五時まで飲んで帰ったよ」
 その後お良さんが亡くなられてから、また先生と京都へ行って先生の定宿「佐々木」に泊まった。この時も玉葉が年輩の芸者二人とはいってきて、これからお良さんの追悼をやろうという。この時のことは先生も短編『いとしき女』で書いておられるが、お良さんのことは一切口にすまいというのがその場の約束だった。床の間に香を薫いて静かに地唄を捧げると小説にあるが、地唄だけではなかった。
 長唄も出た。清元、新内もでた。盃が廻ってそれぞれ微酔を帯びていながら、その底では泣いていた。あんな物悲しい追悼の席を見たことがない。小説にある通り玉葉は、その後東山の疎水に身を投げて自殺した。私は新聞で知ったのだが、理由(わけ)は知らない。もう三十年も前だ。あの追悼の席に玉葉がいたのに、あの追悼は玉葉のためだったと、時折、勘違いすることがある。
 お良さんにお別れの日、白菊で埋まった寝棺に先生が崩れるように我をれて慟哭された姿は、強く印象に残っているが、数日後、先生が「お良は可哀そうなことをした。何もしてやれなかった」とポツリといわれたことがある。「お良さんはあんなに大事にしてもらったじゃありませんか」と私はやっとそれだけをいったがそんな通り一辺の言葉に先生の返事は返って来なかった。
 
 麹町のお宅へ私が初めて伺ったのは四十七、八年前になる。先生との応対はいつも玄関先で上へあがることなかったが、ある時原稿をいただきに行ったら「あと三十分ほどだから、あがって待ってて頂戴」とお良さんにいわれて茶の間へ通り、長火鉢の前でお良さんと世間話のうち芝居の話になり、市村羽左衛門の話に及ぶと意気投合、それ以来、私はお良さんに信用してもらえるようになった。先生は大正の初め『妻を買ふ経験』の頃は大阪南区笠屋町の生活で、その頃私は少し離れた西区新町の小学校の三、四年生だった。先生はケツネうどんや高野豆腐の味がわかり、誓文払の心斎橋の賑わいもご存じだったから、私が喋る大阪の話にも耳を傾けてもらえた。お良さんと同じ羽左衛門びいきの先生に『羽左衛門伝説』をお願いすることになるのも何かの縁といえそうだ。
 『羽左衛門伝説』は毎日新聞の夕刊小説で、その一つ前に与謝野晶子主題にした佐藤春夫さんの『晶子曼荼羅』が連載中だった。当時毎日新聞は、作者の希望次第では新仮名も当用漢字も使わず、古いままで通した。佐藤さんは殊に漢字、用字を大切にされたから、これが一般読者には読めない、わからないということになって、投書が殺到した。次は里見さんである。社の上層部は頭が痛い。
 「里見さんには易しく書いてもらえ」というのである。そんな無理をどうしていえよう。「佐藤に許したことを俺には許せないのか」といわれればそれまでである。でも社命となれば致方なく、恐る恐る扇ヶ谷へ伺った。
 しばらく怒りを押さえる様子の先生は、やがて、
「俺は俺の好きなようにしか書けない。君がいいように書き直せ。単行本も君の方から出るが、これは別だよ」
 これでどうにかホッとしたが、先生の原稿を毎回新仮名に直し、むずかしい漢字、用字を易しくするのは気の疲れる仕事だった。先生の原稿には一切手を触れずそのまま、出版局へ回して、これが単行本用の原稿になった。

先生がある時「俺は羽左衛門の前に出ると口がきけないのだよ」といわれたことがある。好きな女の前で口がきけない。「まるで気の弱い中学生じゃありませんか」といったら「その通りだよ」と笑っておられた。一通りの惚れようではなかった。「羽左衛門伝説」のさし絵の木村荘八さんも劣らぬ羽左衛門ファンだったから、あの仕事は二人共通の恋人を両方楽しんでいたようなもので、お二人の間には毎日のように手紙が往復した。殊に木村さんの手紙は絵入りで楽しかった。その一部は先年出た『絵のある手紙』(中央公論美術出版社)に収録されている。
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 喜多村緑郎日本食より洋食が好き、ビフテキが好き、葉巻は手から放したことがない。この喜多村を扇ヶ谷のお宅へに呼んで、大佛さん、木村さん、演劇出版社の利倉幸一さんなどと“喜多村にものを聞く会”を催されたことがある。
 昭和三十八年八十九歳で喜多村は他界するが、その二年前のことである。血色もよく、記憶もいい。しゃべり出すと淀みがなかった。横で大佛さんが「九十近くもなって舞台へ立つなんて世界に類がないよ」と驚いておられた。
 その時喜多村の話は新派よりも彼が若い頃十年ほどいた大阪の、特に歌舞伎の話が多く、実川延若(先代)の団七に尾上卯三郎の羲平次の「夏祭浪花鑑」など、これは私も子供のころ見ているので喜多村の口から聞くと卯三郎の写実芸が一層面白かった。先生も面白いからこの会は月一回はやろうよといわれたが、結局二回ほどで続かなかった。

 翌年一月、喜多村は尿毒症と肺炎で一時危篤が伝えられた時、先生は私を呼んで、小さな包みを出された、
「これは母が自分でつくった家宝の薬でね、死んだ人間の肝をとってサフランや金粉を混ぜてつくる、いわば秘薬だ。つくるとき強い香料の匂いで部屋は息もできないくらいだ。父が危篤の時これで助かっている。これを喜多村へ届けてくれないか。半分届けて、あとの半分は俺のいざという時に使うからね」と笑いながら紙包みの上に筆で「人胆(じんたん)」と書かれた。の秘薬のおかげかどうか、喜多村の死はそれから一年ほど後のことになる。
 今回、先生の最後に残り半分の「人胆」がつかわれたかどうか。私はまだくわしいことを聞いていないが「生あるものには死がある。初めあれば必ず終りがある」と先生は最近よくいっていられた。所詮天命と、諦観はあったのだろうと想像はするが、それにしても無性に淋しいというほかない今日この頃である。(昭和58年)