漫才型の危機 中座の松竹新喜劇 S.41.2.19 毎日新聞 ・劇評 山口廣一

 

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 天外の病気休演の補強策として、蝶々と雄二を加入させた松竹新喜劇が二月の中座である。
 ワキ役にまわる雄二はとにかくとして、蝶々はずいぶん濃厚な個性をもった人だ。それたけにこの新加入がこの劇団の今後の演技構造にかなりの変革をもたらすであろうことは想像にかたくない。現に今月の館直志作『養子と狐うどん』などに、すでにそのきざしがあらわれている。
 この作品は初演でない。数年ぶりの再演もので、その初演の明蝶の役だったうどん屋の主人を女主人のおひさにおきかえて蝶々にやらせているのだが、この蝶々のおひさと藤山のふんする養子の新太郎とが、父親を捜すいなか娘のお八重を救ってやるあたり、蝶々と藤山の掛け合い演技のおかしみが、観客を実に爆笑させている。
 だがしかし、これらの笑いはどちらかといえば、漫才型の笑いとでも呼ばれるべきものなのだ。ここでいう漫才型の笑いとは、演劇として計算された”描写”ではなく、それらが単なる即興的な寓意やコトバや身振りの執拗な繰り返しのアンバランスがもたらせるおかしみをいうのである。
 もちろん、この劇団の従来からの演技内容にも、こうした漫才型の笑いは多分にふくまれていた。そしてそれらの笑いも決して一概に非難されるべきものでなく、十分その存在価値をみとめた上でのはなしなのだが、ただかかる非演技的笑いが、蝶々の加入によって舞台の前面に必要以上に拡大される懸念に、今後この劇団への一つの不安がかかっている点を指摘しておきたいのである。
 以上の説を裏返していえば、藤山も蝶々も今日の大阪喜劇を代表するすぐれた演技者であることは間違いなく、したがってもっと正統的な演劇的演技を処理し得るだけの実力をもった人たち、ないし持ち得る人たちなのだから、その栄誉と責任にかけても、この式の漫才型の安易な演技は出来るかぎり自制すべきであるまいか。もしそれができないというなら、問題を出発点へ逆にもどして、この劇団とはいささか異質演技のミヤコ蝶々を補強策として新加入させた根本の誤ビュウに触れなければなるまい。
 同じく蝶々と藤山との主演による狂言ながら『花粉』では、不思議と右にいった漫才型の笑いへの懸念がほとんどなく、いずれも妥当なよき演技を示して今さらこの両人のうまさを知らされた。
 この狂言もまた、館直志の旧作の再演なのだが、前者の『養子と狐うどん』で発見された漫才型演技が、この後者の『花粉』においては発見されなかったという不思議さを、もし後者の作品が前者の作品よりはるかに上質で、漫才型演技をそう入させるスキがなかったためだと解釈するなら、そこにはまた館直志というこの劇団に不可欠の名作者を病気で休演させているこの劇団の不幸が問題となるのである。  (山口廣一)