江戸系の情緒 四月の新歌舞伎座 毎日新聞(S.47.4.12) 劇評 山口廣一

 

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 およそ俳優は演技力のほかにそれとの関連において個々の肉体がかもし出す情緒的な可能性をそれぞれに持っている。いわゆる役者の持味と称されるものがそれなのだが、今月の『江戸育お祭佐七』での勘弥の佐七などを見ていると、そうした持味のたのしさが、いかにもよくわかる。
 たとえば芸者小糸の変心を怒って、手もとにある煙草盆を右手に振りあげた瞬間、その上腕部と直角になる線上に顔を斜めにまげる。このシンメトリーの破り方に、勘弥の江戸前役者としての身についた情緒的なものの美が凝縮されているのである。
 こうした江戸狂言のもつ情緒的色調を、みずからの肉体で造形し得る歌舞伎役者も次第に少なくなってきた。この意味では今月の勘弥もすでに貴重な無形文化財といえる。
 この狂言自身は明治中期の凡作ではあるのだが、いま言ったような勘弥の演技とその情緒のたゆたいを味わうには持って来いの狂言だ。
 この式の狂言のあとで『大石最後の一日』を見るとあきらかに後者の戯曲としての格調の高さが知れる。仁左衛門の大石は後半になると、表面的な具象演技で内面的なものを説明しようとする一種の入念さがかえってよくなかったけれど、前半での娘おみのの男装にさり気なく目をやるあたりに、老練さをのぞかせていた。
 秀太郎のそのおみのが悪くない。今月は秀太郎が役々それぞれ成功しているようだが、とくにこのおみのの好演を認めておく。ただし演技が興奮してくるとセリフの音階が急昇して黄色っぽい声になるのは抑制したいものだ。
 孝夫に玉三郎を組合わせた売り出しコンビに『番町皿屋敷』と書換え狂言『お静礼三』とを与えているが、文句なしに前者に軍配があがる。
 演技も前者での孝夫の播磨はセリフの音質のさわやかさに魅力があり、玉三郎のお菊も風情の清純さと、心理的なものへ神経をよく行きとどかせている努力を認めたい。
 要するに、孝夫も玉三郎歌舞伎の年齢を若返らせた感じが、なによりお手柄なのだが、それだけに今後ともこの若いふたりを甘やかせて、若いエネルギーの停滞を早めないだけの警戒がいる。(山口廣一)
                             

復活場面の意欲 文楽の帰国記念公演 S.49.7.26 毎日新聞 劇評 山口廣一

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 母国日本では突っかえ棒がないと自立できないはずの文楽が、異国パリでの六月公演三十日間を文字どおりの連夜満員にして帰って来た。その皮肉が話題を呼んでいるのだが、七月の朝日座はその帰国公演である。
 しかも長い旅路の疲労を見せず昼の部の鎌倉三代記では「入墨の段」から「米洗いの段」まで、夜の部の「艶容女舞衣」では「美濃屋の段」を、それぞれ新しく復活させたのは見事だ。ただし残念なことに後者の「美濃屋の段」は南部大夫と燕三の好演があるにしても、作品自体さして効果のある語り場と思えず、この復活のみは減点。
  前者の「入墨の段」は十九大夫と道八。百姓に身をやつした佐々木高綱が敵陣に捕らえられ顔に入墨されるおかしみ。取り立てるほどのうまさでなかったものの、久々の上演だけにおもしろく聞けた。絹川村閑居の端場にあたる「米洗いの段」はいわゆるチャリ場の典型である。蓑助のつかう村の女房おらちが下賤な動作で笑わせる。ここでの伊達路大夫を今月の奨励賞とする。
 切場の「高綱物語」は津大夫だが、合三味線の寛治が休演で勝太郎が代役にまわっているせいもあってか、むやみに怒号するコトバが逆に印象を散漫にする。この人の否定面がそのまま出た。人形では”親につくか、夫につくか、返答いかに”で清十郎の時姫に詰め寄る勘十郎の三浦之助の左足を前に出した瞬間の形が美しい。人形のえがく人形の詩心が伝わって来る思いだった。
 「酒屋」の前半の呂大夫はむしろ苦手の語り場で成績もよくないが、今後ともこの人には敢えてこの式の語り場を与えて、軽い発声の勉強をさせることだ。
 越路大夫のその後半は相変わらず人情の”渇き”めいたものを感じさせる。今日での最高の「酒屋」だけに惜しい。三味線の喜左衛門が健在。
=三十日まで。(山口廣一)

漫才型の危機 中座の松竹新喜劇 S.41.2.19 毎日新聞 ・劇評 山口廣一

 

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 天外の病気休演の補強策として、蝶々と雄二を加入させた松竹新喜劇が二月の中座である。
 ワキ役にまわる雄二はとにかくとして、蝶々はずいぶん濃厚な個性をもった人だ。それたけにこの新加入がこの劇団の今後の演技構造にかなりの変革をもたらすであろうことは想像にかたくない。現に今月の館直志作『養子と狐うどん』などに、すでにそのきざしがあらわれている。
 この作品は初演でない。数年ぶりの再演もので、その初演の明蝶の役だったうどん屋の主人を女主人のおひさにおきかえて蝶々にやらせているのだが、この蝶々のおひさと藤山のふんする養子の新太郎とが、父親を捜すいなか娘のお八重を救ってやるあたり、蝶々と藤山の掛け合い演技のおかしみが、観客を実に爆笑させている。
 だがしかし、これらの笑いはどちらかといえば、漫才型の笑いとでも呼ばれるべきものなのだ。ここでいう漫才型の笑いとは、演劇として計算された”描写”ではなく、それらが単なる即興的な寓意やコトバや身振りの執拗な繰り返しのアンバランスがもたらせるおかしみをいうのである。
 もちろん、この劇団の従来からの演技内容にも、こうした漫才型の笑いは多分にふくまれていた。そしてそれらの笑いも決して一概に非難されるべきものでなく、十分その存在価値をみとめた上でのはなしなのだが、ただかかる非演技的笑いが、蝶々の加入によって舞台の前面に必要以上に拡大される懸念に、今後この劇団への一つの不安がかかっている点を指摘しておきたいのである。
 以上の説を裏返していえば、藤山も蝶々も今日の大阪喜劇を代表するすぐれた演技者であることは間違いなく、したがってもっと正統的な演劇的演技を処理し得るだけの実力をもった人たち、ないし持ち得る人たちなのだから、その栄誉と責任にかけても、この式の漫才型の安易な演技は出来るかぎり自制すべきであるまいか。もしそれができないというなら、問題を出発点へ逆にもどして、この劇団とはいささか異質演技のミヤコ蝶々を補強策として新加入させた根本の誤ビュウに触れなければなるまい。
 同じく蝶々と藤山との主演による狂言ながら『花粉』では、不思議と右にいった漫才型の笑いへの懸念がほとんどなく、いずれも妥当なよき演技を示して今さらこの両人のうまさを知らされた。
 この狂言もまた、館直志の旧作の再演なのだが、前者の『養子と狐うどん』で発見された漫才型演技が、この後者の『花粉』においては発見されなかったという不思議さを、もし後者の作品が前者の作品よりはるかに上質で、漫才型演技をそう入させるスキがなかったためだと解釈するなら、そこにはまた館直志というこの劇団に不可欠の名作者を病気で休演させているこの劇団の不幸が問題となるのである。  (山口廣一)

”花”のある危険 新歌舞伎座の扇雀・猿之助 S.49.1.24 毎日 劇評 山口廣一

 

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 西の扇雀と東の猿之助、ともに今日の歌舞伎俳優のうちでは特に大きい舞台の”花”を持った若手の人気者である。そのふたりが顔を会わせたのは初春芝居にふさわしい明るさだ。
 扇雀でいうなら、四世南北の原作を舞踏化した「お染の七役」の早替わりがそれだ。久松、お染、お光、土手のお六などを早いテンポでつないでゆくのだが、そのそれぞれに舞台の”花”が美しくて、この人の魅力が十分に発揮される。
 かたや猿之助では、先代ゆずりの「黒塚」が依然として最高の芸だ。作よく曲よく振りもよく、わけて月に浮かれるわらべ唄のくだりから、後シテでの地蔵倒しまで、これも舞台の”花”が心ゆくまでひろがって、あの若さであれだけの円熟さを見せるー以上の二狂言が今月での優秀作である。
 だが、その反面、このふたりの人気俳優に共通する課題は、そのめぐまれた天性の”花”を今後いかに効率よく結実させ得るや否やにある。自己の”花”を過信するあまり、かえって仇花のむなしさに萎えしぼむ危険も同時に存在しているのだ。深い自戒がこのふたりに共通して必要なゆえんだ。
 「黒塚」であれ程の演技力を示した猿之助も「俊寛」になると、意欲ばかりが先行して、演技の練りが足りていず、悲痛さの押し売りが悲痛さを上すべりさせている。
 同じく扇雀では「吉田屋」での伊左衛門がよくない。細評するなら、最初の冬編笠の花道から”ゆかりの月”まで、総じて演技のスピードにしろ、せりふの抑揚にしろ、ひどくマのびしているのがよくないのだ。とかく上方和事といえば、その和の文字に拘泥してか、弾力のないマのびした演技を正しいと考えるところに間違いがある。この伊左衛門のような典型的な上方和事では、逆にもっとスピーディーな緊迫した演技こそ正しいのである。扇雀が見せたあんなにまでスローテンポの伊左衛門では舞台のふんいきが陰々滅々になるのでいけないのだ。将来の上方和事の第一人者であるべき扇雀だけにこの点をとくに強調して教えておく。(山口廣一)

文五郎の死と文楽 <芸一筋に善意の人生> S.37.2.25 毎日新聞・追悼・山口廣一

 

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 死んだ文五郎は文楽座のトレードマークだった。このトレードマークは全国津々浦々でも通っていて、あるいはその名は世界的(?)であったかもしれない。文楽などまったく見向きもせない若い世代の人たちでさえ、吉田文五郎と聞けば、それが高名の人形つかいだということくらいは知っていよう。
 今日の文楽はなんといっても古色ソウ然たる伝統芸術だ。それは三百年以上におよぶ長い歴史を背負っている。いいかえればその歴史の古さが今日の文楽の高貴さなのである。そこへゆくと、あの古色ソウ然たる九十翁・吉田文五郎の存在は、そのまま文楽のそうした古い歴史の高貴さを象徴していたのである。文五郎の偉さは必ずしも彼の芸術が立派だったばかりでない。彼のあれだけの長寿と、しかもその長寿にしてなおかつ舞台に立ち得たことそれ自体が、なんとなく“文楽的”なものを感ぜしめたからなのである。かくして文楽の高貴さを身をもって造型していたところに、トレードマーク文五郎の有難さがあったのだ。

 文五郎は大阪島之内に生まれた。生家は小さな炭屋だった。明治初年の文楽座は西区松島町にあったのだが、それへ十六歳の文五郎は弟子入りした。明治七年のことだった。しかし間もなく彼は文楽座を去って当時、同座と対抗していた彦六座系の堀江座その他に中年すぎまで長く出勤した。もとの文楽座へ復帰したのは、すでに松竹が同座を植村家から買収した以後の大正初期で、そのとき彼はもう四十歳を出ていたはずだ。だから文五郎はその意味では生ッ粋の文楽人とはいえないかもしれない。その文楽座へ戻ったとき、月給が一躍五十円になって『こんなギョウサンいりまへん』と驚いたというはなしは有名である。

 生前の文五郎は女形づかいの名人として知られていたが、もともと彼は立役づかいなのだ。女形の人形を持ったのはその文楽座に復帰してからのことで、そのころ立役づかいの先輩に文三とか、多為蔵がいたので、自然と女形づかいにまわされたという。立役では「葛の葉」の保名など、彼の絶品とされていた。

 それよりも文五郎終生のライバルは初代の吉田栄三だった。芸質からすると栄三の内攻的な堅実派に対して、文五郎はどこまでもケンランたる様式派だったのだが、この対照の妙を得た立役づかいの名人栄三と女形づかいの名人文五郎のコンビは、昭和の文楽にかずかずの傑作を残した。

 その栄三が終戦直後大和法隆寺疎開先でさびしく、この世を去ったのにひきかえ、文五郎はかほどの長寿にめぐまれ、しかも死の直前まで舞台に立ち得た。はかりしれぬ人生の明暗であった。
 だが、実をいえば、意外にもこの長寿文五郎は若いころから胸部疾患があった。晩年は大阪国立病院長の布施信良博士が、その主治医だったのだが、彼は老境においてさえ、しばしば喀血(かっけつ)した。喀血しながら九十二歳の天寿を完うしたのである。医学的にそれはどう解明さるべきか知るところでないが、不可思議な人間生命力の顕現というほかない。

 文五郎は子供のころから文楽の修業に泣いた。彼の両足にはかつて師匠の先代吉田玉助に舞台ゲタで蹴られたキズあとがいくつか残っていた。一人前の人形つかいになりたい。あとにも先にもこれだけが彼のいのちをかけた願望だった。これ以外、彼は自分の人生からなに一つ要求しようとしなかった。人生の打算を知らなかった人、まことにそれは善意の人生だった。

 その善意のすべてが文五郎をあの底抜けに明るい童心の人とした。最近の一例をあげよう。先年豊竹山城少掾が引退した送別宴の席上で文五郎は『いま山城さんと別れることは私の父親を失う思いがいたします』と、いかにも真剣な顔で述べた。その父親と呼ばれた山城少掾のほうが文五郎よりはるかに若いのだ。満場の参会者はドッと笑った。

 大阪での“芸人馬鹿”の系譜は、先代中村鴈治郎、三代目竹本越路大夫、初代桂春團治、それにこの吉田文五郎と続く。それらは芸一筋のほか生きる知恵を持ち合わせていない人たちばかりなのだ。ここでいう馬鹿とは無欲の人生を意味する。どこまでも明るい屈たくのない無欲の生涯、これは最高の保健剤に違いない。現代医学を超脱した文五郎の“喀血の長寿”も、どうやらこのあたりで説明ができそうである。
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 文五郎を失った文楽は前述のとおり取っておきの登録商標をなくした形である。それは大きい損失だろうが、なんといっても近年の文五郎は日常生活においても歩行困難だった。わけて舞台は十キロにもおよぶ人形を持たねばならない。文五郎のうしろから、そのからだをささえるもうひとりの“文五郎づかい”が必要だった。
 それに彼は六十代のむかしからすっかり聴覚が衰えてしまっていた。ときおりひそかに聞こえる三味線合いの手だけをたよりにしていたのだ。文五郎の持ち役が十年一日がごとき「酒屋」のおそのや「妹背山」のお三輪に限られていたのは、それなら使いなれていて必ずしも聴覚を必要としないですんだからだ。新作狂言に出演しなかったのも同じくその理由による。
 
 いずれにしても今日の文五郎は、すでに文字どおりの過去の人にだったにすぎない。その意味で彼の死は文楽の将来に決定的なものを残さないであろう。ただ、文楽座がもっとも効率の高い唯一の登録商標を失った悲しみだけはたしかだ。文五郎について次代の文楽象徴する人材、それは因会(ちなみかい)三和会両派文楽に属する人たちの今後の努力のなかから新しく創り出されねばならないであろう。たとえ衰滅を嘆かれている悲運の文楽にしても… (山口記者)

玉葉、羽左衛門、喜多村 「里見弴の素顔」(かまくら春秋)サントリー美術館 山口久吉

 

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 終戦間もなくのころ先生(里見弴)と京都へゆき、三条大橋東のしもたや風の宿に泊まった。夜十一時近くになって一人の女性が現れた。一見して祇園芸者と知れたが、背のスラリとした美人で京風というよりは東京、それも柳橋か葭町の感じだった。すぐ酒になった。
 先生とこの女性は戦争をはさんで随分ご無沙汰だったらしく、話は次から次へと途切れがない。私はやがて自分の部屋に引き下がったが、翌朝、宿の朝風呂を済ませたころ先生が起きてこられて、食事のとき、
「あいつは玉葉といって、古い馴染みなんだ。朝五時まで飲んで帰ったよ」
 その後お良さんが亡くなられてから、また先生と京都へ行って先生の定宿「佐々木」に泊まった。この時も玉葉が年輩の芸者二人とはいってきて、これからお良さんの追悼をやろうという。この時のことは先生も短編『いとしき女』で書いておられるが、お良さんのことは一切口にすまいというのがその場の約束だった。床の間に香を薫いて静かに地唄を捧げると小説にあるが、地唄だけではなかった。
 長唄も出た。清元、新内もでた。盃が廻ってそれぞれ微酔を帯びていながら、その底では泣いていた。あんな物悲しい追悼の席を見たことがない。小説にある通り玉葉は、その後東山の疎水に身を投げて自殺した。私は新聞で知ったのだが、理由(わけ)は知らない。もう三十年も前だ。あの追悼の席に玉葉がいたのに、あの追悼は玉葉のためだったと、時折、勘違いすることがある。
 お良さんにお別れの日、白菊で埋まった寝棺に先生が崩れるように我をれて慟哭された姿は、強く印象に残っているが、数日後、先生が「お良は可哀そうなことをした。何もしてやれなかった」とポツリといわれたことがある。「お良さんはあんなに大事にしてもらったじゃありませんか」と私はやっとそれだけをいったがそんな通り一辺の言葉に先生の返事は返って来なかった。
 
 麹町のお宅へ私が初めて伺ったのは四十七、八年前になる。先生との応対はいつも玄関先で上へあがることなかったが、ある時原稿をいただきに行ったら「あと三十分ほどだから、あがって待ってて頂戴」とお良さんにいわれて茶の間へ通り、長火鉢の前でお良さんと世間話のうち芝居の話になり、市村羽左衛門の話に及ぶと意気投合、それ以来、私はお良さんに信用してもらえるようになった。先生は大正の初め『妻を買ふ経験』の頃は大阪南区笠屋町の生活で、その頃私は少し離れた西区新町の小学校の三、四年生だった。先生はケツネうどんや高野豆腐の味がわかり、誓文払の心斎橋の賑わいもご存じだったから、私が喋る大阪の話にも耳を傾けてもらえた。お良さんと同じ羽左衛門びいきの先生に『羽左衛門伝説』をお願いすることになるのも何かの縁といえそうだ。
 『羽左衛門伝説』は毎日新聞の夕刊小説で、その一つ前に与謝野晶子主題にした佐藤春夫さんの『晶子曼荼羅』が連載中だった。当時毎日新聞は、作者の希望次第では新仮名も当用漢字も使わず、古いままで通した。佐藤さんは殊に漢字、用字を大切にされたから、これが一般読者には読めない、わからないということになって、投書が殺到した。次は里見さんである。社の上層部は頭が痛い。
 「里見さんには易しく書いてもらえ」というのである。そんな無理をどうしていえよう。「佐藤に許したことを俺には許せないのか」といわれればそれまでである。でも社命となれば致方なく、恐る恐る扇ヶ谷へ伺った。
 しばらく怒りを押さえる様子の先生は、やがて、
「俺は俺の好きなようにしか書けない。君がいいように書き直せ。単行本も君の方から出るが、これは別だよ」
 これでどうにかホッとしたが、先生の原稿を毎回新仮名に直し、むずかしい漢字、用字を易しくするのは気の疲れる仕事だった。先生の原稿には一切手を触れずそのまま、出版局へ回して、これが単行本用の原稿になった。

先生がある時「俺は羽左衛門の前に出ると口がきけないのだよ」といわれたことがある。好きな女の前で口がきけない。「まるで気の弱い中学生じゃありませんか」といったら「その通りだよ」と笑っておられた。一通りの惚れようではなかった。「羽左衛門伝説」のさし絵の木村荘八さんも劣らぬ羽左衛門ファンだったから、あの仕事は二人共通の恋人を両方楽しんでいたようなもので、お二人の間には毎日のように手紙が往復した。殊に木村さんの手紙は絵入りで楽しかった。その一部は先年出た『絵のある手紙』(中央公論美術出版社)に収録されている。
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 喜多村緑郎日本食より洋食が好き、ビフテキが好き、葉巻は手から放したことがない。この喜多村を扇ヶ谷のお宅へに呼んで、大佛さん、木村さん、演劇出版社の利倉幸一さんなどと“喜多村にものを聞く会”を催されたことがある。
 昭和三十八年八十九歳で喜多村は他界するが、その二年前のことである。血色もよく、記憶もいい。しゃべり出すと淀みがなかった。横で大佛さんが「九十近くもなって舞台へ立つなんて世界に類がないよ」と驚いておられた。
 その時喜多村の話は新派よりも彼が若い頃十年ほどいた大阪の、特に歌舞伎の話が多く、実川延若(先代)の団七に尾上卯三郎の羲平次の「夏祭浪花鑑」など、これは私も子供のころ見ているので喜多村の口から聞くと卯三郎の写実芸が一層面白かった。先生も面白いからこの会は月一回はやろうよといわれたが、結局二回ほどで続かなかった。

 翌年一月、喜多村は尿毒症と肺炎で一時危篤が伝えられた時、先生は私を呼んで、小さな包みを出された、
「これは母が自分でつくった家宝の薬でね、死んだ人間の肝をとってサフランや金粉を混ぜてつくる、いわば秘薬だ。つくるとき強い香料の匂いで部屋は息もできないくらいだ。父が危篤の時これで助かっている。これを喜多村へ届けてくれないか。半分届けて、あとの半分は俺のいざという時に使うからね」と笑いながら紙包みの上に筆で「人胆(じんたん)」と書かれた。の秘薬のおかげかどうか、喜多村の死はそれから一年ほど後のことになる。
 今回、先生の最後に残り半分の「人胆」がつかわれたかどうか。私はまだくわしいことを聞いていないが「生あるものには死がある。初めあれば必ず終りがある」と先生は最近よくいっていられた。所詮天命と、諦観はあったのだろうと想像はするが、それにしても無性に淋しいというほかない今日この頃である。(昭和58年)

めぐまれなかった晩年 <団蔵の死> S.41.6.5 毎日新聞 山口廣一

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  この春、花の四月の東京歌舞伎座歌右衛門を筆頭にして勘三郎梅幸、勘弥、三津五郎ら豪勢な顔ぶれの歌舞伎公演で、近来にないにぎわいを見せた。その花やかさのなかで八世市川団蔵の引退披露狂言の『鬼一法眼菊畑(きいちほうげんきくばたけ)』『助六曲輪菊(すけろくくるわのももよぐさ)』が上演され、当の団蔵が見せる得意の鬼一に満場の観客席からは、この八十三歳の老優にはなむけの拍手がどよめいた。
 だが、そうした花やかさの舞台で、すでに団蔵は死を決意していたのではあるまいか。引退興行後直ちに東京を旅立った四国八十八カ所の巡礼路、そしてそれを終えた帰路の船中で姿を消した。死へのスケジュールがいかにもはっきりとたどれるからだ。死を目前にみつめながらの団蔵の鬼一…これは多数の観客のだれにも気づかれなかったまことに奇妙な<劇中劇>だったのである。

 市川団蔵の家系歌舞伎の名門中の名門だ。実父の七世団蔵は世にときめく九代目市川団十郎と対抗して、長く大阪道頓堀に居すわったことのある気骨の名優だった。故谷崎潤一郎はこの先代市川団蔵を口をきわめてほめたたえていた。
 こうした名門の出の八世団蔵だったが、晩年はきわめて不遇だった。とくにその庇(ひ)護者といえた中村吉右衛門が他界してから今日までの十数年間は役らしい役もつかず、いつも楽屋の片隅で黙々とひとりさびしく端座していた団蔵だった。古老中の古老俳優ながら、それだけに舞台裏ではとかく敬遠され勝ちだ。訪問する客も少なかった。八十を越え、かえるみる者もいない老残の孤独は、いかにも悲惨だ。生きるにたえない日々がつづいたに違いない。
 
 団蔵ほどの高齢の役者になると、とかく明治、大正期の歌舞伎芝居花やかだったよき時代への郷愁がつねに脳裏に去来して離れない。「今日の歌舞伎芝居は、団体客のための歌舞伎芝居で、本当のものではありません」「むかしの役者は歯を食いしばって芸をみがいたものです。今日の役者にはその気概がありません」…….そんな現代への反抗ともつかないグチが団蔵の重い口から時折漏れた。周囲の人たちはそれを“老いの繰りごと”として冷やかに黙殺した。そうした日常が、歌舞伎の花やかさの裏で、この孤独の老優に生きることへの絶望を次第に刻ませていったのではあるまいか。
 現代医学からすれば、これは別にめずらしくもない老化現象、えん世的人神経症とでも軽く診断されるかも知れないが視角をかえて見れば、この団蔵の死は歌舞伎の将来への死をもってする警告ともとれるのではあるまいか。いい換えれば、この老優の投身自殺は今日の歌舞伎が反省すべき多くの課題を内在させている事実を、ひそやかに指摘されたものとも解釈されるのである。(山口廣一)