綱大夫の「沼津」 七月の文楽座 S.31.7 毎日新聞 山口廣一

 

f:id:yamasakachou:20140419205635j:plain

 新作「ハムレット」が終ってつぎの「壺坂」がはじまると、舞台も客席も急に生気を吹き返した感じだった。作品としての「壺坂」は必ずしも調子の高いものではないが、それでも床に松大夫と清六、人形に文五郎や栄三がならぶと、さすがに急ごしらえの新作などとは違って、長い年月をかけたたみ込んだ芸の格調が光って来るからだ。いいかえれば、文楽のもつ本質的なものに安心して溶け込んでいられるからである。文楽の新作にはなお多くの課題が横たわっていることを、これでまた改めて知らされる思いがした。

 その「壺坂」では、まず清六のイキの変化に富んだ三味線を聞くべく、松大夫も沢市の言葉に工夫があり、人形では亀松の沢市がやや動きすぎるほかは、文五郎のお里も老巧のツヤを示した。

 昼夜通じては、綱太夫弥七の「沼津」が第一の優秀作である。大体において山城ゆずりの原作尊重で行くところに、綱太夫の主張があり、それが当て込みのない抒情表現の手堅さに通じた。例えばお米のサワリにおけるほのかな哀愁、段切れ近くでの重兵衛と平作とのしっとりとした情合いずれもこの人の内面的な凝集力である。人形ではこれも先代ゆずりの栄三の重兵衛が柔軟性のあるいい味を出していた。「朝顔」の「宿屋」は伊達大夫以下の掛合いで、いささか雑然としているが、静大夫の徳右衛門、新進の織の大夫岩代を採っておく。松大夫と津大夫の「鎌倉三代記」では後半の津大夫が時おり無理な声の出るのを別にすると“刺されし時のそのうれしさ”などの大きさが以前よりは充実して来た。人形では玉助の高綱が荒らモノつかいの骨法をよく伝えている。

 さて、新作の「ハムレット」だが、こんども松之輔の作曲である。全体に時代物めかせた節調のうちに、行進曲をあしらったり、民謡風の唱歌を添えたり、三味線胡弓として使ってみたり、いろんな新しい努力を見せているのだが、綱大夫の語るハムレットとガートルードとのくだりが盛り上がらず、結局は筋書きを追うのみの空虚さに終わったのは是非もない。

 もう一つの新作「四谷怪談」も同じく松之輔の作曲だが、伊達大夫の“髪すき”が聞けるほかは、これも残念ながら企画ほどの面白さでなかった。(山口廣一)

文五郎という名人 昭和二十一年文楽座公演  毎日新聞 山口廣一

 

f:id:yamasakachou:20140429102316j:plain

 私は文五郎の人間が好きです。もちろん芸も好きですが、その「芸」をつくりあげている、その芸のもう一つ奥にある「人間」がさらに、より好きなのです。
 文五郎が、二代目吉田玉助の弟子として、はじめて文楽座へ入座したのは明治十七年だったといいます。時に文五郎、十六才でした。
 その頃の文楽座はまだ松島の花園橋にありました。そして文五郎の生家は天満の与力町でした。だから、十六才の少年文五郎は、毎日毎晩、天満の与力町から松島まで通わねばならない。もちろん、そのころのことですから、市電もバスもありません。然も、その頃の文楽座は朝の五時から「三番叟」の幕が開くので、是非とも、それまでに出勤していなければなりません。それで、天満の与力町の家を出るのが、毎晩、夜中の午前三時ごろだったそうです。

 まだ真ッ暗らな夜道を、河内木綿の筒袖に、手に小田原提灯をぶらさげた文五郎が、与力町から堂島川へ出て、さびしい蔵屋敷の前を川沿いに松島まで、てくてく歩いて行く姿を想像してみて下さい。時には雨の夜もあったに違いありません。これが毎夜のことですから大変です。小田原提灯をぶらさげた手から、ヒビや霜やけで血が吹き出ています。その痛みをじっと喰いしばって歩きました。と、そのころを追憶しながら、文五郎はそう話した。

 文楽座へ通うことだけで、すでにこれほどの苦しみです。然もその上、小屋へ着くと、師匠や兄弟子たちの下着を、千代崎橋の下に持って行って、それを洗わねばなりません。手先がちぎれるほど冷たい川水に、文五郎は泣いた。
 今日の名人吉田文五郎は、十六才の少年時代から、こんな苦しい修業で叩き上げて来た人なのです。私はその苦しい修業を、なによりも尊いものだと思います。

 今日の歪められた自由主義、行き過ぎた享楽主義からすれば如何にも馬鹿げたことに見えるかもしれません。それは私たちが“苦しみ”がもっているある種の美しさ、尊さを忘れてしまったからなのでしょう。
 明けて八十五才の長寿を祝う文五郎、一見したところ、平凡な好々爺に過ぎないようですが、文五郎こそ、自分の人生を、自分の“苦しみ”で磨きあげて来た「人間」としての立派さをもっている人です。
           
                       ×
    
 文五郎は芸人です。芸人だからといって差しさわりがあるかも知れませんが、恐らく文五郎は、若いころからいろんな女性とたくさんの関係を経験しているでしょう。それで、私は或るときぶしつけに「あなたが一番好きだった女の方は?…」とたずねてみたのです。すると、
 「それは北海道札幌で働いていた芸者で、栄龍といいました。えらいわたいに情を尽くしてくれた女で、しんそこわたいに惚れてました。わたいも、またこの女に死ぬほど惚れてました」
 と、いとも平気な顔で答えたのです。それこそ、表情ひとつ変えずに、まるで小学校の生徒が先生に答えるかのような調子で自然に朗々と打明けました。
 このとき以来、私はいよいよ文五郎に魅かれていったのです。この答えは、実に淡々たる人間ムキ出しの面白さだからです。
 それほど惚れ合っていた女とどうして夫婦にならなかったのか、別れてしまったのか、そんなことを聞き返すことはない。
 「女も、しんそこわたいに惚れてました。わたいもまたこの女に死ぬほど惚れてました。」—どこか天国へでもいった無邪気さです。近頃の恋愛小説などより遥かに、男と女の情愛の不思議さを語っていて、私は何故か胸を打たれる思いがしました。文五郎の高弟「紋十郎」が「師匠の奥さん想いを知らんもんはおまへん」というほど、文五郎は女房大切の人であることも云っておかねばならない。

 今日、文五郎は芸術院会員です。だが、実はそんな形式的な肩書きなどは、どうでもいいのです。それよりも苦難が鍛えあげた人間の立派さ、枯れ切った人間の面白さにおいて、私は、だれよりも文五郎を愛し。文五郎を尊敬しています。(山口廣一)

風格の「沼津」 二月の新歌舞伎座 S.36.2.16(毎日) 劇評 山口廣一

 

f:id:yamasakachou:20140819112128j:plain

 勘弥の弁天小僧が極楽寺の大屋根で立ち腹を切ると、その大屋根がガンドウ返しで奥へたおされて、下から山門のセリが上がって来る。山門の上には猿之助(二代目)の日本駄右衛門が大百日に金銀のドテラ姿でひかえている。大太鼓入りのセリの合方が素朴な花やかさをひびかせ、サクラの釣り枝が舞台一ぱいに明るい春色をちりばめている。いかにも原始的な舞台転換だが、この舞台転換の瞬間の興奮は歌舞伎のすぐれた美のリズムである。歌舞伎は古い美意識のようでいて、実はこうした個性的な生命力の充実を感じとらせるところ、むしろそれは新鮮な美しさでないか。今月の新歌舞伎座では昼夜を通じて、この山門のセリ上がる瞬間のわずか数十秒間の興奮が、なににもまして快感だった。
 その勘弥の弁天小僧も、前場の「浜松屋」のユスリより、この大屋根の立ちまわりのほうが、はるかにいい。決まった形のかどかどに、かっての十五世羽左衛門を思わせるポーズのとり方がほほえましかった。猿之助の日本駄右衛門はさすがにあの目とあのツラだましいとが利いている。それは近ごろの若い俳優に求め得ない歌舞伎の古怪な美の感覚である。なお「浜松屋」での仁左衛門の南郷力丸は二枚目めいた軟派の力丸ではあるが、これもすっきりとした嫌味のない演技に点を入れておく。

 寿海と猿之助との顔合わせに「沼津」が選ばれているが、その寿海の重兵衛も猿之助の平作もともに正攻法的な演出である。先代鴈治郎や先々代仁左衛門によって代表される上方系の演出でのこの場は悲劇のなかのおかしみを強調する。したがって当然立役であるべき重兵衛が和事めいた色気のおかしみで演出される。こんどの「沼津」はそうした上方系の演出とは全くニュアンスの違ったどちらかといえば義太夫の原拠に近いやり方でゆく。その是非はしばらくおくとして、筆者が正に正攻法的な演出といったのは、かかる意味あいからなのである。
 寿海の重兵衛はそれだけに沈潜したさびしい重兵衛ではあるが、千本松原での平作への情合いが渋い淡彩画のような詩情でしっとりとした味だ。欲をいえば平作内の場での”人間万事芭蕉葉の”から”降らねばよいが”あたりのセリフにもう少し悲痛な感情のにじみを聞きたかった。猿之助の平作はここ数年来でのこの人の傑作といえる。もちろんこれも淡々たる平作なのだが、むだな思い入れが少なくて、それでいて演技の急所だけはしっかりおさえていた。いずれにしてもこの老大家ふたりの協力になる「沼津」は少なくともその風格の大きさにおいて、当代での「沼津」であることに間違いはない。
 その他今月の役々では、久々に帰阪した鶴之助の進境を特筆しておかねばならない。わけて「長脇差試合」での浅太郎はその腰のすわった明快な演技に、年来の努力と天分とを示しえていた。 (山口記者) 

孤高の芸境  よろこびの山城少掾 S.35.10.8(毎日) 山口廣一

f:id:yamasakachou:20140821101629j:plain

 豊竹山城少掾、まことに孤独の人である。近親と呼ばるべきほどの人はひとりもない。
 老夫人のうのさんは終戦直後になくなった。七人もあった子供たちも末娘の雄子ちゃんを最後にひとり残らずこの世を去った。現在、山城の朝夕を見まもるのは女中の横山さんと門人の豊竹十九大夫ぐらいのものだろう。一昨年、文楽座を引退して以来、京の東山に移り住んで、来る日も去る日も孤独のわびしさにたえかねているこの老芸術家に“文化功労者内定”の報は、せめてものささやかななぐさめになろう。

      ×      ×

 山城の数ある傑作のうち、筆者は特に「伊賀越道中双六」の八ッ目「岡崎」をとりあげたい。雪の夜の岡崎の宿、かそけきともしびのもとに展開する政右衛門とその病妻お谷との悲劇を、かくも哀傷切々たる叙情で表現し得た太夫は古今を通じて、現在の山城をおいて他にあるまい。
 一例を引こう。その「岡崎」でお谷の登場するくだり“そとは音せで降る雪に、無惨や肌も郡山の国に残りし女房の…”の一句における音(オン)づかいと足ドリで、たましいの底まで冷えこごえるような雪の夜の静寂を感じさせる。ついで政右衛門がお谷をいたわって帰らせるくだり“杖を力に立ちかねる、とやせんかたえに脱ぎ捨てしコモに積りし雪のまま着せて….”におけるお谷の悲しみと絶望の迫力にいたっては。それはまさに山城第一の絶品だった。
 右にあげたほんの一例でも知れるとおり、山城の芸風は、義太夫の詞章の文学的な解釈の深さと、その音楽的な表現の的確さにおいて、古今の太夫の企及し得なかった清新を示した。さらに加えて、登場人物の心理的な掘り下げ、情景描写の色感、曲節の文法的な処理の正しさまで、すべて山城の正統派的な芸術意欲のあらわれだった。凡百の太夫なら、おのれの美声にたよって軽く歌い流してしまうことだろう。山城はそれの出来ない太夫である。どこまでも論理的な計算と、それを導入する豊かな創意によって、おのれの語るべき作品をギリギリの極限にまで押し進めて、その最後の芸術的頂点を追求しようとする。そこに前人未踏の“山城の風(ふう)”が誕生した。山城少掾、孤高の芸境である。
 太夫の類別からすると、山城は三段目語りというよりも四段目語りだろう。時代物語りというよりも、むしろ世話物語りだろう。だが、そのいずれにおいても山城ほどの天分と知性と努力とを兼ねそなえた名人は得がたい。幕末の五代目春大夫明治期の摂津大掾、三代目大隅大夫らについで、昭和期の豊竹山城少掾もまたわが国の音楽史における一人の革命児である。今日の文化功労者の栄誉また当然というべきであろう。

            ×            ×
  
 山城は当年八十一才になった。あの円満な風貌は若き日とさして変わりないが、さすがに足の運びがたどたどしくなった。生来の酒豪ながら今日では一盞(さん)の晩酌に孤独の余生をまぎらせている。
 住まいは京都東山清井町、ささやかな庭に打水して秋草の青さに見入っている。朝の高台寺の鐘と夕の知恩院の鐘とが静かに端居する山城の肩のあたりに清風の余韻を流して過ぎる。
 八十路を越えた老芸術家の孤独は絶え入るばかりのわびしさだが今日の吉報は、この寡黙の山城にも、そのよろこびの口もとを、しばし明るくほころばせたことであろう。(山口記者)

 

 

”「大和屋」が勝負”  本興行の文楽座 S37.2.4 毎日新聞 劇評 山口廣一

f:id:yamasakachou:20130326111311j:plain



 文楽で見る近松の原作もの、必ずしもおもしろくない。むしろ近松より後世の俗輩作家によって勝手気ままに改作されたもののほうが、かえっておもしろい実例のあるのは皮肉だ。
 今月の文楽座では近松の「天網島」の全編をほとんど原作に近く上演した。しかしその上の巻の「河庄」では端場の「口三味線」の段、中の巻の「紙治内」でも同じく端場の「ちょんがれ」の段といった後世の改作によるくだりをあわせ加えている。原作尊重の形式主義からすると、これは邪道的上演なのだが、実はこれでおもしろさが倍加した。後世の改作の部分が義太夫の技巧的な面でぞんぶんにたのしませてくれるからなのだ。
 その「河庄」の段が掛け合いなのは残念だったが、春子大夫の治兵衛が若さのツヤで実力一杯に押しているのがよかった。土佐大夫の小春は一応としても、相生大夫が渋く落ちついた孫右衛門を聞かせてくれたのはまず年功というべきだろう。人形では栄三の治兵衛を筆頭に玉市の孫右衛門、玉五郎の小春とそろうと、今日の文楽での一級品である。
 「紙治内」から「大和屋」の段にかけての綱大夫では、その「紙治内」が前述したとおり近松の原作であるにしても舞台的には特に興味を添えるほどのこともなく”あとに見捨つる、子を捨つる”も単にうたい流すのでなく、母親としてのおさんの悲痛さを写実のイキで突っ込んでほしかったが、最後の「大和屋」の段のみはさすがに近松の原作が大きく光る。
  夜ふけの北の新地、寒々と冬の月が冴えている。茶屋の大和屋にいる小春を治兵衛が人目を避けて呼び出す。すでにふたりは死を決しているのだ。治兵衛が兄の孫右衛門が弟の不幸な予感に身をふるわせながら深夜の町々をかけまわっている。そうした情景の切々たる描写、登場人物それぞれの緊迫した心理の追及、近松の諸作品のうちでもかほどまでの筆力は得がたい。作品それ自体は二百年を経た古典狂言なのだが、この「大和屋」の段が観客に訴えてくるものは、まさに近代リアリズムの清新さである。いいかえればその迫真感の見事さである。今月の文楽ではなんとしてもこの「大和屋」が勝負を決めた。
 この一段における綱大夫はすでに定評がある。病後の非力を勘定に入れても、なお最初の夜まわりの番太のおぼろげな情趣から段切れのイキの詰まった三重まで、絃の弥七とともに依然この人の適格な佳品であることを示し得た。小春が表戸を抜け出る”しゃくって開くればしゃくって響き”のあたりなど、たまらなくおもしろい。
 話題をもとへ戻すが、右に入った改作ものの「紙治内」の端場「ちょんがれ」の段は若い織の大夫で興味をひいたが、まだまだ口の軽さが十分でない。一例をとれば”きかしいな、せわしいな”の対句など、もっとキッパリと皮肉に語りたく”恋ゆえじゃなあ”のとぼけたチャリもさらに一倍おかしみの味ををねらう勉強がしたい。
 相生大夫の「沼津」では最後の「千本松原」だけが掛け合いになっていたが、この掛け合いでの津大夫の重兵衛とその相生大夫の平作とが緊迫感でよく出来た。ただ人形での玉助の平作が”落ちつく先は九州相良”のあたりで、必要以上に舞台の奥にいる池添と瀬川とを意識するのは考えすぎた演技過剰である。

雪を忘れた「岡崎」S.45.10 国立劇場  <演劇界劇評> 山口廣一

f:id:yamasakachou:20140725182235j:plain

伊賀越道中双六」
 鴈治郎仁左衛門と顔をあわせたほか出演俳優全部が全部、大阪役者であることは、なんとしてもよかった。もちろん大阪役者だからいいといっているわけでない。上方狂言上演での上方役者の純性がまもられていることがいいのである。序幕の「行家屋敷」の場に柝が入って幕があく。この幕あきの合方からしてすでに、その三味線のノリが江戸でなく、これは大阪だと私の耳には直ぐ知れた。そして私はこの芝居の行く手にそこはかとなき期待をかけたのだが、さて幕が進むにつれて、そうした期待が晩秋の街並木が一葉づつ大地に落葉させていくようなそんな寂寥感に変貌していったのは、一体全体、なぜだったのであろうか…。
 二幕目「郡山屋敷」の場、お谷と武助のくだりがあって、政右衛門の出になる。ここの呼び出しの義太夫の「心がけある侍は、地を這う虫も気を許さぬ」は文楽の専門語でいうところの、横隔膜をずしりと下腹部へ押さえた播磨地(はりまじ)の地色なのだ。そうした発声量感と、そうした発声の輪廓とが、やがて登場するであろうところの唐木政右衛門の人間的風格を、はじめて観客のイメージのなかに導入する。そんな意志と機能を持っているのだ。ところが、この場のチョボは、これをまるで江戸小唄のような鼻先の黄色い口腔音でこともなげに唄うのである。大きい被害は鴈治郎の政右衛門だった。
 その花道へかかった鴈治郎の政右衛門の第一印象は、どうにも上わ脊の足りないのがさびしい。こんな俳優の生理的な欠陥をあげつらうのは気がひけることだけれど、やはり見だてがない。
 だがそこはさすがに鴈治郎で、奥にゆくにしたがって時代と世話の流動する体線の使分けに洗練があり、上方芸の一つの原型のようなものを次第に提示して来る。もう少し正確にいうなら、それは時代よりもむしろ世話味の勝った演技、たとえば五右衛門の果し状を皮肉にとって「まずそれまではお許しくだされ」と上半身を前のめりに辞儀する瞬間、左肩を微かに落とすようなやわらかな曲線の描き方などは、正直にいって政右衛門らしくない味なのだけれど、それがまた義太夫の粘着質のリズム感とどこやらうまく密着していく。これはあきらかに上方芝居の美意識である。辛抱立役におけるこの式の時代四分に世話六分、といった逆の配分のおもしろさは、現在に継承された先代鴈治郎の大きい遺産といえる。
 
 三右衛門の宇佐美五右衛門が以外によくないのは困った。おそらく近年でのこの人の病弱にもよるのであろうが、こんな福徳円満型の微温的五右衛門では「饅頭娘」にならない。この場のもっとも演劇的なるものは、実はこの五右衛門と政右衛門との剛と軟との対比にあるのだ。激怒に身を震わせた五右衛門が投げかける罵声を、酔態の政右衛門がぬらりくらりと肩すかしで逃げるおもしろさがこの段の趣向なのである。こうした五右衛門の焦燥や激怒や正義感や、そしてそれらが最後に全部裏返しになって古武士の一徹な死の決意にいたるまでの経過が反動的にこの場での政右衛門の人間像を鮮明に浮き彫りにしていく。そんな対照効果の計算があるのだ。三右衛門の五右衛門はあきらかに存在の失格である。
 扇雀のお谷もよくない。この人の舞台がもっている一種肯定的な明るい雰囲気が、この場での武家の堅気の女房を否定する。扇雀の持ち前の得点がこのお谷では逆の減点にまわっているのだ。さらにいうなら、このお谷は下手の襖から頭巾姿で顔を出した最初の登場からウレイの肚でいるのが、あきらかにまったくの誤演である。政右衛門の後添いが妹のおのちと知るまでは、不安と疑惑と嫉妬のお谷であるべきで、ウレイでない。そのことは丸本に明示されている。 太郎の下僕武助も荷が勝ちすぎているし、性根もつかめていない。右にいったとおり、鴈治郎の政右衛門がせっかく上方芸の一つの典型としての辛抱立役を見せてくれているにもかかわらず、かくもワキの役々の誤演が揃っては、なんとも歯切れの悪い「饅頭娘」に終わる。演出が粗雑すぎた。
 次の「奉納試合」でも、鴈治郎の上脊の足りない、見てくれの悪さが気の毒だった。わけて松若の林左衛門がいささか並はずれて高いので、それが目立つ。床柱を背にして奉書を斜めに構えた形での、先代鴈治郎の立派さを思はず私は心の底で反芻していた。役柄が定型化している歌舞伎の場合、とくにそれぞれの役柄と俳優の肉体条件との相関における不可避の当否はおそろしい。それは単なる演技の形態に止まらなくて、演技の中核的なものまで決定づける。それがおそろしいというのだ。
 政右衛門の奉書に対して、大内記が太刀で立ち向かうのは、江戸系の長槍に対する上方系の主張である。(もっとも逆に文楽の人形では長槍なのだが)そして試合の下座も江戸系では“扇拍子”でゆくところを、上方系では合方入りである。とにかく格式張ったことを避けたがる上方人的感覚が、こんな歌舞伎演出の片隅にも顔を出しているようだ。
 誉田大内記は扇雀だが、最初の正面から出ての「誰々も出仕大儀」といったせりふの音程はもう半音ばかり高いがいい。青年藩主大内記の闊達な若さの表現としてである。だがそんなことよりも、扇雀の誤演がここでも一つ大きく注目された。政右衛門が林左衛門に討ち負けたあと、五右衛門が脇差しに手をかけようとするのを制しての「やれ待て、この場の切腹相叶わぬ」の語調にしても、正面奥へ引っ込む瞬間の五右衛門に投げる視線の思い入れにしても、それらに大内記の政右衛門への厚意をそれとなく形象させている。いはゆるハラを割っているのだ。これではあとの大内記と政右衛門の奉納試合が馴れ合いになってしまう。こう最初から大内記が自分の真意の在りどころを明示してしまっては、この芝居のトリック的興味を、観客から剥奪してしまうことになる。歌舞伎の、こんな素朴な趣向の掛け引きすら、わからないものか。不思議千万である。
 扇雀君ばかりを対象にして悪いのだけれど、ことのついでに申し上げておきたいのは、この場の幕切れで、花道にある鴈治郎の政右衛門に呼びかける大内記の「主従は三世ぢゃのう」のせりふを、ひどく哀切な、まるで泣き出すような感傷的語調で、その語尾を絶え入るばかりながながと伸ばしていたのが、コトバの演技として、どうにも類型すぎているということだ。
 扇雀にかぎらない。失礼ながら演技力の低下した近ごろの歌舞伎俳優諸君は、ウレイのせりふは、そのせりふの語尾を伸ばせば、それで十分表現できたものと至極安易に決めてかかっているのでないか。こんな単純幼稚な様式演技しか心得ていないのである。そこに演技創造のエネルギーの枯渇を見る。これも亦救いがたき歌舞伎の、今日的薄暮化である。
 義太夫での道行場に該当する「藤川新関」で、飛脚助平の遠眼鏡から趣向して、この場に「団子売」や「万才」の景事浄瑠璃を挿入するのは文楽式の演出だ。こんどもそれに倣って、ここへ長唄地の「松霞我彩色」なる所作を押し込み、秀公の太夫、孝夫の才蔵、秀太郎の鳥追いの三人を踊らせた。義太夫のチョボの人材難から、やむなく長唄地を選んだという弁解は読んだものの、やはりこの本格の義太夫狂言における細棹物の所作事は、どうも違和感が付着する。一歩ゆずって、そうした違和感のせんさくは措くとしても、この長唄地の所作そのものの内容がさしていただけるものとも受けとれず、右の若い三人の振りごとにもそれぞれ不満が残ったうえ、その歌詞に俳優片岡家の私的な祝儀が唄い込まれているようなところが、公的劇場としての国立劇場での上演だけに、いささか意識のうえでの、すっきりしないものを感じさせる。おかしなことだ。
 
 演技評にもどる。ここでの飛脚助平にすでに年齢的に過重な動きの期待されぬ璃珏を選んだのは、むしろ痛々しかった。いかにも老人の冷や水めいた疲労が先に立って、この役の跳躍的なおもしろみがどこにも発見し得なかった。かてて加えてこの人のせりふの発音がひどく不明瞭でほとんどなにをいっているか聞きとれない。
 もし私なら、この助平に若い人気スターの孝夫君を配してみる。そして十分伸び伸びとやらせたうえ、この助平を中心とした別の企画の義太夫地のおかしみで処理してみたい。もちろん、これはなんの責任もないほんの私の、即興的演出案なのだけれど…。
 八ッ目の「岡崎」を端場から比較的ていねいに上演したのは本格的な試みでよかったのだが、松柏の眼八(がんぱち)が騒々しいばかりで、文楽でのこの端場における幸兵衛と眼八との取り合いのおもしろさなど毛頭のぞめなかった。
 秀公の志津馬と秀太郎の組み合わせである。その秀公の志津馬ではせりふの間をせき込むのが欠点だ。秀太郎のお袖は後半で尼のくだりがないので寂しいのだが、神妙に実力だけで見せていたのが得点につながる。
 舞台を半まわしにして、雪の竹薮の門外になると、「逃れて急ぐあとよりも」のオクリで花道から菰ござで身を隠した政右衛門が駆け出る。七三でその菰ござから顔をのぞかせる。頬かむりの手拭の花紺めいた鮮やかな色合いがいかにも効果的だ。老境に入ってからの鴈治郎の顔は次第に彫りが深くなって陰翳の渋い美しさが出て来た。もともとこの人の顔は治兵衛や忠兵衛の顔でないのだ。世評に楯つくようだけれど、このことはここで改め確認しておきたい。その説明の余裕はないが、あの顔は辛棒立役の顔だ。その辛棒立役の顔に年齢から来る古色が加わった。そんな美しさなのである。
  捕手との立ちまわりになる。上脊の足りない小柄の政右衛門は依然としてハンディキャップであり、「ほぐれをとって真っ逆さま」で捕手を投げた見得など、形が生きて来ない。幸兵衛に危機を救われて「見苦しけれど拙者が宅へ」と案内されるのを受けての「然らば、ご免」には義太夫の皮肉さがある。かって山城少掾なども、わずかなこの一句をひどく気にしていた。ご参考までに申し上げるなら、「然らば」をコトバに取り、つぎの「ご免」からフシに取るのだが、その「ご免」の音づかいで、この見知らぬ親爺の厚意を不審がる政右衛門の疑惑の心理を摘出しようとする技巧なのである。偶然の一致かも知れないが、鴈治郎の政右衛門が、この一言に意識的なアクセントを添えていたのは、多少ともそうした義太夫の皮肉を心得ていた結果だろうか。もしそうなら、それはあきらかに先代鴈治郎ゆづりに違いない。
 仁左衛門の幸兵衛もあの顔のつくりが人形での鬼一ガシラを思わせていたのが一興である。からだの動きにもう一つ腰の切れない感じはこの人のいつもの欠点なのだが、せりふに義太夫言葉の幅を利かせて量感をねらっているのがよい。この幸兵衛と政右衛門とが「尽きぬ師弟の遠州行燈かき立てかき立て」で名乗り合うイキはおもしろく出来た。そしてここでも鴈治郎のその政右衛門が両手をついて顔を心もち斜めにもっていくやわらかな首から肩への描線に、上方芸の色気というか情感というか、そんなものが瞬間の閃光として光る。
 幸兵衛が出ていったあと「そとは音せで降る雪に」から、花道のお谷の出になるのだが、照明がああまでベタに明るいのは神経がなさすぎた。このくだりは多少とも照度を落として、やがてはじまるであろうお谷の苛酷な悲劇にそなえるべきだった。それがこの場の作意でもあり模様(抒情表現)でもあるのだ。雪の夜の暗さの底を匍う母と子の慟哭、そんな感覚的なものが、舞台の効果の上にも用意されていなければいけない。
 その扇雀のお谷が花道から舞台へかかると、下手から小提灯をさげた夜まわりの親爺が登場する。その吉三郎の夜まわりにまったく芝居っ気がなかったのは致命的である。この一役は決して単なる点景人物でないはずだ。それはこの場の実感誘導の、もっとも重要な反射盤ともいえるのである。演技の巧拙の以前に問題があるのである。演出がさらに粗雑だ。
 扇雀のお谷も一応の努力はわかるにしても、演技の軸点になるものがこれもまったくつかめていないようだ。第一、前記の夜まわりにしても、このお谷にしても、それらの演技のいずれの端からでも観客は、丸本に指定されたこの雪の夜の“氷のような”寒気の一端すら、果たして実感として受け取り得たであろうか。雪の寒気のない「岡崎」を、少なくとも、私ははじめて見た。
 お谷が雪のなかに悶絶すると、政右衛門が戸口へ出て枯柴をくすべて暖を取らせ「気を張りつめて必らず死ぬな」の絶叫から「この年月の悲しさとうれしさこうじて足立たず、菰に積りし雪のまま、着せてチンテンテン」の拍子オクリの三味線のおもしろさまで、この一幕の最高潮であるべきくだりが、鴈治郎の政右衛門にも扇雀のお谷にも、まったく演技の手順が出来ていない平凡さで、芝居の興奮がどこにも盛りあがってこなかった。
 さらに、鴈治郎の政右衛門についていうなら“莨切り”での包丁の音が演技とハンマ、ハンマにはいって耳ざわりだったこと。それにしじゅう顔を正面に向けていたのも、どうした解釈か。妙でないか。ここはそばで糸を繰る母親に気取られまいと、視線煙草を刻む手もとに落としながら、雪の戸口にたおれた女房と子供に全身の神経を尖らせている絶体絶命の場における血みどろな精神の痛み、そんなもののせめて一端でも、鴈治郎の芸として見たかったと思う。
 
 各場を通じて強いて選ぶとするなら「饅頭娘」での鴈治郎と「岡崎」での仁左衛門の幸兵衛との一応の格闘ということになろうが、総評としては失敗の『伊賀越』である。演出の安易さ、演技の安易さ、そんな割り切れぬ安易さを見たことは悲しい。
 上方役者の純性で採あげられた上方系の義太夫狂言だという私の最初の期待からして、すでに同じく安易だったのであろうか。どうにも捨てどころのない苛ら苛らした気持ちで。午後十時、帰りの劇場バスのなかに、黙々として私はあった。